田中真紀子文部科学省大臣が、2013年度新設予定だった秋田公立美術大、札幌保健医療大、岡崎女子大の3校を不認可としたことで、思いつきとか裁量権の逸脱とマスコミが叩いている。
驚くべきことに、このニュースを検索すると、すべての新聞やメディアは、同じ口調で、田中文科相を批判している記事ばかりである。
画一的な情報は、政府とメディアの情報統制的な合意の存在が疑われる。
なぜ、大衆は、このことに驚異を感じないのであろう。
過去の太平洋戦争(大東亜戦争)の軍部(大日本帝国)が行った「大本営発表」を思い出してほしい。
オウム真理教の起こしたサリン事件を知らない大学生が、オウムが名を変えたアレフに入信する数が増えていることを知ってもらいたい。
知らないではすまされないのに、その危険を顧みず、最終的に国民がメディアに乗っかって、日本を太平洋戦争に向かわせてしまった過去の失敗を、今、しっかりと次に生かしていかねばならない時代であると私は思っている。
産経ニュースは以下の通り
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「田中文科相 答申否定は裁量権の逸脱」
2012.11.4 03:39
不安が現実になった。田中真紀子文部科学相が大学設置・学校法人審議会の答申を覆し、来春開校予定の3大学の設置申請を不認可とした。ルールを無視した判断で、到底認められない。
田中文科相は不認可とした個々の具体的理由に言及せず、「大学が全国で約800校ある中、大学教育の質が低下している」「大半の(審議会)委員が大学(関係者)で、大学同士が互いに検討している」と述べた。
大学の乱立を防ぐためには、大学以外の識者の委員を増やし、より厳正に審査すべきだと言いたかったようだ。
それなら、手順を踏み委員の構成を代えたうえで、新しいメンバーによる審議会で議論すべきである。歴代文科相が任命した現委員による従来の大学設置基準に沿った答申を否定することは、裁量権の逸脱である。
今回、田中文科相から新設を認められなかった3大学は、いずれも短大や専門学校からの改組で、申請に不備はなかった。しかも、副大臣ら政務三役にも事前の相談がなかった。政治主導を通り越して、大臣の独断専行に近い。
長年、開学準備に取り組んできた学校側や、志望を予定していた学生らのショックは小さくない。田中文科相は、不認可の決定を取り消すべきだ。
大学設置基準が事前規制型から事後チェック型に移り、大学は増加の一途をたどっている。それが質の低下を招いている面も否定できない。大学教育の質を高めるための制度改革は必要である。
田中氏は11年前、小泉純一郎内閣の外相に就任したが、事務当局との無用な軋轢(あつれき)で混乱を招き、米国要人との会談を直前にキャンセルするなど非常識な言動が目立った。大臣としての適性に欠ける政治家を文科相に起用した野田佳彦首相の任命責任は極めて重い。
田中氏に限らず、民主党政権になって以降、教育行政で問題のある政治判断が相次いでいる。
学力向上のため、全児童生徒を対象にした学力テストは抽出方式に切り替えられた。道徳の教材「心のノート」の国による全員配布も中止になった。
かつて、学力テストや道徳の時間特設に強く反対した日教組などへの配慮とみられる。民主党にこれ以上、日本の教育を任せることには疑念を強めざるを得ない。
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この記事の結論は、民主党に政権を取らせてはいけないという一点である。
本来、国民のために問題にすべきことは
「大学設置基準が事前規制型から事後チェック型に移り、大学は増加の一途をたどり、それが教育の質の低下を招いている事実」と「大学教育の質を高めるための制度改革が必要」
という、この「制度改革」にこそある。
この問題を解決するためには、なによりも「安易な大学設立を許可しない」ことと、大学という教育を担う期間の設置基準は、事前に認可し、その後、設立にするという、誰もが納得する、ごく当たり前の流れに戻すことに他ならない。
ただ、それだけの単純なことを、なぜ、このように、日本全国の報道関係(メディア)は、一斉に、しかも全く同じ言葉で情報を流しているのであろうか。
– 無用なものはほんとうは何か –
「小泉純一郎内閣の外相に就任した際の事務当局との無用な軋轢」が起きたのは、くだらない「根回し」に時間がかかり、一番の問題点を後回しにする官僚制度に、メスを入れようとしただけのことで、それを「無用な軋轢」というならば、霞ヶ関そのものが「無用な存在」といえよう。
さらに「教育行政で問題のある政治判断」とあるが、そこにある「問題ある政治判断」が、「全児童生徒対象の学力テストを抽出方式に切り替えたこと」や、「道徳の教材「心のノート」の国による全員配布も中止になったこと」を理由にしていることも、失笑を禁じえない。
私が保護者として、これらの国の無駄なばらまき教育時代に我が子が公教育を受けていた折、実際に子どもたちと接する教員にとっても児童にとっても、「全国学力テスト」や「心のノート」などは、まったく実際の教育にとって、プラスになるしろものではなく、むしろ、不必要な時間を割かれる無用な教育ツールでしかなかった。
この記事を書いている記者の、現場を取材しない、官僚報告のレポートなど、実際にはなんの役にも立たない情報でしかない。
ここから受け取られる情報は、「田中真紀子が嫌い」「民主党は嫌い」といった感情論だけで、実際に国を、子どもたちの教育を改善していこうという思いなど、これっぽっちも感じられない。
それは、検索して出てくる、ニュースソース、すべてのメディアに言えることで、ここまで、すべての情報伝達部をもつマスメディアが、こぞって、同じ言葉を連ねていることに、官僚による恐怖政治を感じずにはいられないのだ。
大学設置・学校法人審議会は新設を認めると答申していたが、田中文科相の判断で不認可となった。
「大学は量より質が重要」という田中文科相の言葉ばかりがクローズアップされ、「思いつき」などと言われているが、田中角栄の娘でもあり、政治家として素人ではない彼女の思惑は、そんな言葉で表現すべきものではないと思う。
「大半の(審議会)委員が大学(関係者)で、大学同士が互いに検討している」と田中文科相が述べている。
文科省によると、審議会の委員29人のうち大学関係者は22人と公に発表している。
「外部の有識者で検討会をつくらないといけない」という田中文科相の言葉は、ほとんどのメディアで消されている。
大学を創設することで利益を得る人間を、その創設基準を審議する場に置くといった過ちから、正すことは当然であろう。
田中文科相は、大学創設によって、利益の享受がないからこそ、冷静な判断ができるともいえよう。
少なくとも、大学関係者以外の教育に対して意識の高い人間(すなわち、現実に児童・生徒を育てている母親や現場教員を含めての有識者)による審議会が作られることで、日本の教育に風穴を開けることになるかもしれない。
某教育ドラマ金八先生に出演していたツッパリ役の三原じゅん子議員が田中真紀子批判をしているが、彼女は、果たして、官僚と大学との天下りの癒着とか、マスコミから大学教授の席をいただいて、おいしい思いをしている人間たちがいることをご存知ないのだろうか?
教育者が、みんな金八じゃないし、実際の教員から見ると、あれは、ドラマという虚構でしかなくて、そんなものを理想にしちゃう感覚は、多いに間違っているのだということを、国民の代表となられる方ならば、知っておくべきではないかと厳しい言葉をかけたい。
– そこに利権はないのか?隠したいものを見失わせてはいないか? –
文科省の官僚やマスコミ関係者が天下り時のために、私学助成金というお土産をつけるような利権をもつ人間からすると、田中文科相を都合よくバッシング対象とすることで、自分たちの将来の安全を図りたいのだろう。
田中文科相のいう「大学設置認可の在り方を抜本的に見直す」とは、審議会の判断基準に疑問があるという大臣としての結論である。
その疑問を払拭し、適正な判断をしている審議会であるという信頼あらば、こうしたことは起きない。
起きたということは、そこに不正を感じるものが存在していたとみる冷静な目も必要だ。
例えば岡崎女子大。報道によれば、
「短大を改築し大学校舎にするほか、大学案内のパンフレットなどを作成していたという。認可を前提に学生の募集を始め、今月末にも推薦入試を実施する予定だった。」
「資金を投じて準備してきた。文科相の思い付きに振り回されたくない。」
とある。
しかし、正式に認可されていないのに(スケジュール的な問題があるのかもしれないが、それは、自分の都合でしかないはず)認可されていない段階で準備を始めたことに対するリスクは、認可する側ではなくて、自身である学校が負うべきものだと思う。
普通の企業でいえば、勇み足というものであろう。
また、それをするならば、自身のリスクを負ってでも、それに賭けた結果であって、他人のせいにするものでもないように思う。
文部科学省のページに出ているスケジュール(大学を設置するまでの流れ)をみてほしい。
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http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2009/04/08/1222284_001.pdf
開学準備は認可(認可書交付)の後になっている。
それは、当然であろう。認可前に学生を募集したから、どうしてくれるんだ!というのは、自分の失敗の八つ当たりでしかない。
過去、審議会で通ったものは、すべて認可されていたじゃないか!なんて、裁判の前例主義みたいなことを、学校教育者が口すべきことではないように私は思う。
むしろ、認可されていないのに、志望者を募集した学校も無責任さを恥じるべきであろう。
ルールに則ることのできない教育は、許されるべきではないのではないか。
審議会の認可は得ていたが、大臣の判断で不認可だと伝えられたことに、あってはならないというが、
学校教育法第四条には、以下のようにある。
「次の各号に掲げる学校の設置廃止、設置者の変更その他政令で定める事項は、それぞれ当該各号に定める者の認可を受けなければならない。
(中略)
一 公立又は私立の大学及び高等専門学校 文部科学大臣」
法律には、文部科学大臣の認可を受けなければならない、と定められている。 審議会は認可する権限はない。
審議会の認可を得たということは、法的には何の根拠もないのである。
田中文科相自身は、こうした判断を下すことで、どのような影響があるか、想定済みであろう。
この異例の判断には、現行のシステムに重大な問題が含まれているからであろう。
大学全入時代といわれ、安易な大学創設により経営難を迎えている大学が多数ある。
なのに、なぜ、増え続けるのか。
官僚にうまみのある裏のシステムがあるからだろう。
新聞社の論説委員から何人もの人が大学教授になっている。
日本橋学館大学という大学のシラバスがHPで公開され、2ちゃんねるで「低レベル」ということが話題になった。
1年生の選択授業の教育内容は、「原稿用紙の使い方」や「整数の計算」「アルファベットの読み方」「Be動詞」「分数の計算」まるで、小学生、中学生の進研ゼミのような内容だ。
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http://www.nihonbashi.ac.jp/life/pdf/s2012/s04-12.pdf
これを、公立小中高校で落ちこぼれた人間の救済と、もてはやす人間もいる。
しかし、これが許される社会であってはならないと私は思う。
昔は、小学校の教員は、とにかく、読み書きそろばんだけは、児童に身につけさせることが、自分の役割であり使命であると必死に、子どもに叩きこんだ。
なかには、小学校を卒業したら、すぐに社会に出て働くことを余儀なくされる子どももいたからだ。
22歳前後まで(あるいは大学院修了まで)、子どもでいてもいい社会こそが、今の間違った方向へ進む日本を作り上げてしいまったのではないだろうか。
テレビで、バッシングすることには意味がある。
インタビュー内容の編集もお手の物だ。
ほんとうに、日本という国を、一体、誰が考えているのか。
田中真紀子氏にも、足りないものは多いにあろう。
しかし、うまい汁を味わうために、日本という国の教育を誤った方向に導いている利己の益しかみていない人間に、大切なことを決めさせることを許し、盲判を押せばいいという政治は、もう、やめにしてもらいたいと思う。
いろいろな感情や、過去の言動の非常識なことはあるだろうけれど、未来の日本の教育を考えるとき、私は田中文科相の判断を支持したいと思っている。
(文責 小幡万里子)
一連の報道に違和感があって、検索をしていたらここへ着きました。官と業(大学)とマスコミとが、彼らに都合のいい何をかを構成していて、これに大臣は手をつけたのでしょう。
小生は子の親ではないので、直接の利害はないけれそも、多様な見方を伝えないメディアがこの国のデモクラシーを掘り崩していることに危惧を覚えます。
ありがとうございました。
コメントありがとうございます。
本質に疑問をもち、なにかを変えようとすると、とても大きな壁が立ちはだかり、それを乗り越えるためには、生半可な努力では難しいのでしょう。
田中真紀子氏も、その大きな壁に屈服せざるを得なかったといえると思います。
マスメディアと大衆の力に、真正面から向き合って、声を出すのか。
あるいは、見えない部分からの侵食するような方法で、社会を変えていくのか。
本来、本質を求める存在が増えていけば、壁もなくなるのでしょうけれど、利害という目には見えない壁は、消えないのでしょう。
結局、その見えない壁を取り込むくらいの腹をもつリーダーの存在が、必要なのだろうと思います。
ただ、私個人は、真正面からぶつかることしか知らないので、いつも傷を負っておりますが、いつか、その傷から、学び取ることのできる自分でありたいと思います。
自分の中の違和感を忘れずに・・・
コメントをいただき、心から感謝しております。
対話できる人とのめぐりあいは、とても嬉しいものです。